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なぜ「何者かになりたい」と思ってしまうのか

   


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「何者かになりたい」

こういう声をSNSでよく見た。

2018年頃から、オンラインサロンを始めとする
クローズドコミュニティがますます広がり、
“意識が高い”人たちの成長欲の表現として使われた。

意識が高いことをディスりたいわけではない。

ただ
「何者かになりたい」
「何者かになることを目指せ」
ということが良いことであるかのような風潮に、
心のどこかが違和感が残っていて、
それがようやく言語化できたのが、これを書くキッカケ。

Joshua earle 234351 unsplash

「何者かになる」の正体

個人的な結論としては、↓の通り。
「何者かになりたい」=「特定の誰かに評価されたい」

この特定の誰かは、一人とは限らない。

ぼくたちは、ほぼ同じ意味であることでも
言葉によって受け取る印象が変わる。

「何者かになる」という言葉を掘り下げると
承認欲求とほぼ同義になる。

「承認欲求がある」というと、ネガティブな印象を持つ人でも
「何者かになることを目指してる」というと、頑張ってるんだねとポジティブな見方に変わることが多い。

そもそも論でいうと
「自分が何者かになったかどうか」をどう判断するのか?

「幸せな人生を歩む」
とか
「お金持ちになる」
なら、自分の中だけで完結する。

何者かになったかどうかは、ほとんど他者からの評価が
判断軸になるのではないか?

例えば、
●●さんに知ってもらうor認められる
●●さんと一緒に仕事ができる自分になる

こういうことは、
特定の誰かに認められることが達成の基準になる。

Green chameleon 21532 unsplash

すでに「何者か」になっているのではないか?

もっというと、
「何者かになりたい」と思っている人は
すでに誰かの「何者か」になっているのではないか?

例えば、家族だったり、親友だったり、
自分の大切なコミュニティだったり。

そういう人たちにとって
あなたは確実に「何者か」であるはず。

なのに、なぜ「何者かになる」ことを目指すかというと
もっと評価されたい相手や場所があるからだ。

欲が出るのは自然なことだけれども、
優劣をつけることになるのだとしたら、矛盾が起きる。

つまり、すでに見えている結果(何者かになっている自分)を
「自分の基準」で大事にしていないにも関わらず、
欲しているもの(理想とする何者か)は
「他者の基準」になってしまっている。

あなたは、Aというコミュニティで高く評価されている事実を理解しながらも
「自分の基準」でもっとすごいと思うBというコミュニティで評価されていないことから
「何者かになれていない」と思うかもしれない。

でも、あなたではなく、他の人から見れば、
AもBも変わらないかもしれないし、
Aのコミュニティから評価されることをすごい、と思う人もいる。

これは個人からの評価でも同じ。

Michael rosner hyman 30557 unsplash

何者かを目指すことより大切なこと

成長したい欲の形の一つなのだから
「何者かになりたい」と思うのは素晴らしいこと。

ただ、自分はすでに何者かになっているのではないか?
誰にとって自分は何者であるのか?という
2つの事実を忘れたらいけない。

これを忘れると
優劣をつけていることに気付けなくなるし
自分が評価されたいと望む人や場所から評価されない=何者でもない
と決めつけてしまう。

何者かであるはずなのに、
自分は何者でもない、と判断することは
小さな自信や成功体験も消してしまうし、
あなたのことをちゃんと見ている人や場所に失礼だ。

自分はすでに、どこかにとって・誰かにとって何者かであるのではないか?
という事実を理解することのほうが
闇雲に何者かを目指すことよりもはるかに大切である。

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